タイマグラ通信 —映画「タイマグラばあちゃん」制作ノート—
編著:澄川 嘉彦(「タイマグラばあちゃん」の監督)、出版社:ハヤチネ叢書
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編著:澄川 嘉彦(「タイマグラばあちゃん」の監督)、出版社:ハヤチネ叢書
文:斉藤政美、語り:椎葉クニ子、出版社:葦書房
著者:Mark Buchanan、訳:阪本 芳久、出版社:草思社
著者:東京R不動産 real tokyo estate、発行:アスペクト
(※ 何故か、北区道場町の物件が載ってます)
著者:佐藤邦昭、出版社:築地書館
特集:生活道具&遊び道具 手作り大全 −デジタル時代は、アナログ遊びが暖かい−
出版社:小学館、雑誌
著者:三浦展、出版社:講談社、版型:新書
著者:三浦展、出版社:洋泉社、版型:新書
僕達の暮らす今のこの社会は、あらゆる知が体系化されつつあるらしい。インターネットの普及と、そこで提供されているGoogleに代表される検索サービスの充実によって、ますます拍車がかかっていると言ってもいい。検索と言えば、どんな操作を思い浮かべるだろう。キーワードとなる言葉やその組合せを、データベースの該当欄に打ち込み、側のボタンをクリックする。すると、候補がズラリと並ぶ。その中でこれはと思うものを更にクリックすると、お目当ての情報にたどり着く。うまく行けば、こんな流れだろうか。キーワードで情報を探すという行為は、今までにもあったけれど、インターネットがインフラ化しつつある今、とても身近で敷居が低い行為になってきた。
検索に用いられるのは、名前や語句等の簡単なコトバが多いだろう。ある物事について調べるために、関係する(と思う)コトバを使って検索にかけ、その結果得た情報を知識として獲得する。コトバにより探し出される情報。コトバがナマエだったら、図鑑が思い浮かぶかもしれない。図鑑の中で「検索」というと、索引(インデックス)に当たるというのが常だった。索引(インデックス)には、書物中のコトバや語句などがズラリと並んでいて、どこにそれが書かれているかたどれるようになっている。図鑑であれば、収録された生物等の名前が並んでいたりする。インターネット上にも便利な図鑑サイトがいくつもあって、ちょっと知りたいことがある時など、手軽に使える。名前によって探し出される生き物の情報。
ここまで書いて、名前によって世界を理解するというフレーズが浮かんだ。インデックスにより検索される世界。しかしどうだ。物事を理解する際に、付与された名前から世界を構築することは、ある意味不幸な気がする。名づけられる以前の、その物事の特性が、付与された名前というコトバに隠されてしまうようで、実際に、名前を知って解った気になることも多々ある。自分に子どもができて、彼にどのように世界を伝えていくか、世界を知る術を身に着けるためのきっかけを、どうやって作るか、そんなことを考えるようになった。時間軸の流れの中で、僕達よりも後に生まれ、この世界を生きていく子ども達にとって、世界は既に名付けられたモノばかりだ。僕達も既にそんな世界に生まれ、これまで生きてきた。名付けられた世界で生きていく上で、インデックスを使って効率良く世界観を構築していくというスタイルの生き方を身につけることは、子ども達にとって、もっとずっと後からで良いのではないだろうか。それよりも、目の前に出くわした、彼(等)にとってまだ未知のモノたちに対して、真摯に向き合い、その未知が故の不思議さや不快感や尽きない関心をこそ大切??抱えて、そのモノと、ひいては世界と関わりを築いて欲しい。先人達によって名付けられたモノたちは、それ故に編集可能な世界となって、後からこの世を生きる僕達を未知の不安から解放して、合理的な安住の地を用意してくれた。その先に、ネットの検索サービスが目指すものがあるとしたら、そこに無いモノは、未知のモノの存在と、それらとの関わり方の作法だろう。子ども達は、(社会生活が営めるように程度という意味で)少なくとも僕達くらいまでには、未知の存在を知り、それを解釈するというプロセスを必ず踏まなければならない。けれどもそのプロセスで彼らは、未知の大海に居る不安を覚えるというより、見つけることの悦びの中に在るのではないだろうか。だとすれば、僕達は、子ども達との接し方を見直さなければならないのではないだろうか。
これまでに観察会や生き物説明と称してたくさんの子ども達と接する機会を持ってきた。もちろん具体的なイベントとして成立させるには、時間や場所、内容や人員など、様々な制約がある。条件に合わせて、その時々の成り立ちで、子ども達と向き合うわけだが、図鑑や辞典を使ったような説明は、一つのスタイルに過ぎないという認識に立ち、それ以前に求められる基本的なスタンスとして、次のような姿勢が必要ではないかと思う。つまり、子ども達が自ら見つけ、感じた喜びを大切にして、その時、対象との間に築いた関係を自らしっかりと見つめる姿勢を育むことではないかと思うのだ。捕まえた生き物の、種として一般化された属性の解説を通じて、今そこで手にしている生き物達を理解するというよりも、正にその個体をじっくりと観察して、甲羅や皮膚の模様が、隣の子どもが捕まえたのとはどう違うかとか、鳴き声にどんな特徴や癖があるかとか、捕まえた時にどんな匂いがしたかとか、どんな風にして食べると美味しいとか、そういった“関係”を築くことではないだろうか。あるいは、外来種や在来種についての話をする前に、ブルーギルも、ミシシッピーアカミ??ガメも、ブラックバスも、アメリカザリガニも、カダヤシも、ウスバキトンボも、カワウも、名前で奴らを知るのではなく、目の間に対峙した時に、自ら彼らに感じたことを通じて、どんな関係が出来上がったかに想いを巡らせることが大切だと思う。在来種を守る為に外来種を駆除する必要がある云々というような社会的価値観は、後からでも良いのではないかと思う。まず対峙した“生き物”の全体性に接して、生命として関係を築くことができ、その喜びを覚える、そしてこうした術を身に着ける機会を、きちんと作る必要が、今とても必要になっている気がする。
ため池に関する聞き取り調査では、およそ40年前の豊かな暮らしが、話をしてくれた人たちの言葉を通じて見えてきた。彼らが子どもの頃のため池をはじめとする身近な場所での遊びは、まさにインデックス化された世界に個別に対峙するのではなく、生身で自然の全体性と対峙していたことを知った。学校が終わるとたちまち集まってランドセルを放り投げ飛び込んだため池があり、そこで泳ぎを学び、様々な魚やエビ、水草を知ったという。周囲では季節の動植物の洗礼を受け、自然に応じた危険や甘美のサインを学び、生き物を捕まえるとやがて死んでしまうことや、捕まえて食べることを通じて生命や物質の循環を、当時の彼らは、言葉以前に身体で覚えていった。身近な環境での遊びや暮らしは、体験的に生きた形で学ぶことと同義であったと、彼らは教えてくれた。インデックスで知識を獲得していく以前に、全体性を持った体験を通じて知を得ること、そしてそれが必要かつ有効な時期というのは、僕達人間の場合、子どもの時なのではないだろうか。
物事の意味や価値は、時代やその時置かれた状況によって、大きく変わってくる。今、外来種問題は、環境問題の中でも重要な位置を占めることは疑いがないだろう。しかしこの問題で言えば、子ども達に向けて、駆除する必要を説く際には、駆除することの意味と駆除しないことにより(将来)起こるだろうことの説明や、駆除すること以外の(駆除しないことを含めた)方法で、目指すのと同じ結果を導くことができないかどうかを、子ども達自身が考える“芽”も残しておくことに配慮すべきだと思う。また長くなっちゃった。
チャーミングに世界を変える方法
マエキタミヤコ著
講談社現代新書 1868
明けまして、おめでとうございます。
今年は、”今””ここ”から、観て、考えて、やってみたいと思います。どうぞよろしくお願いします。(コメントなど書き込んでいただければ、うれしさ倍増です!)