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「デザインの力」

11月25日、JUDI関西主催のフォーラム「デザインの力」へ出かけた。お目当ては、あの越後妻有アートトリエンナーレのディレクター、北川フラム氏の基調講演。氏の話は、力があった。時を垂直に、社会を水平につなぐためにはメディエイターの力が必要だという氏の言葉には、妻有の取組みを紹介されるにつけ、重みを増して受け止められた。また、広義のアートに深く関わり続け、同時にある部分では牽引し続けて来た氏が、「(※東京の)日本橋ですら、それほど遠くない過去に、野菜が運ばれ、下肥を積み出していた。そういう里山文化が、(日本の都市にもあった。それが)失われて良いのか?」と問うたのには、目から鱗だった。無意識に氏を”アート”の枠のみでとらえていたことに気づいて、実はその根の深さと張りに驚きもした。妻有は、単なる平坦なイベントではなかったらしい。それでも既に3回、6年を経ていることは、即ち開催地の200の集落にも、そこを舞台にアート作品を手がけるアーティスト達にも、確固とした手応えと、この日のお題の通り「力」を与えているのだと思う。次は3年後。今年で向けなかった事が、つくづく悔やまれた。
 午後は、3つある中の「デザインのレイヤー・時間軸」がテーマの分科会に参加した。照明デザイン、建築、都市計画、ランドスケープデザイン、マテリアルメーカー、グラフィックデザイン、色彩デザイン等の専門家がパネラーとなり、テーマに迫る。途中、「デザイナーと大衆」なんて話題になり、まだこんなことが話題に上るのかと呆れかけたけれど、「デザインは(デザイナーにとって)意思」という言葉に、共有された方向性らしきものは理解できた。レイヤーを、多様な専門家によるコラボレーションととらえたり、時間の積層と共に重ねられるデザイン行為とみたり、どの話題にも興味があったが、この日の時間の中では収れんしそうにはなかった。でも、デザインは意思だけれど、評価は誰がするのか。そして、その評価の積層は、デザインされたとする”その”モノに対して、どのように働くのか。暗黙の内に景観的なものを議論の題材にしていたけれど、それならば尚更、狭義のデザイナーだけがそれを成したわけじゃないと思うのだけれど。デザインは”する”ものではなくて、”なる”ものかもしれない。だから”デザインの力”は、束ねられてこそ発揮されるんじゃないだろうか。

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2006年11月27日 23:54に投稿されたエントリーのページです。

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