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2006年11月 アーカイブ

2006年11月04日

柿は買うものなんだ

JRの駅から阪急バスに乗って帰る。一つ手前のバス停で、優待券を見せて、ステップを降りて行くおじいさんの手に、スーパーのビニール袋に入った柿が見えた。ふと「柿って、買うものだったんだ。」と思って、妙な感じがした。ここは街中の住宅地で、柿はスーパーで買うもの、というのはごく当たり前のことだ。でも、車に乗って少し走れば、農村があって、そこでは誰も穫らずに鳥にさえ飽きられたかのような熟れた実が鈴生りの柿の木が1本に限らず目に止まる。そんな風景と、バスから降りて行くおじいさんの手にした柿の実との距離が、その感じの根っこにはある気がした。

2006年11月07日

ファスト風土化する日本  郊外化とその病理

著者:三浦展、出版社:洋泉社、版型:新書

「教育の力を取り戻す」文芸春秋 11月臨時増刊号 

「街的」ということ  お好み焼き屋は街の学校だ

著者:江弘毅、出版社:講談社、版型:新書(1856)

生物多様性を支持するに足る根拠を探してます。

茂木さんのブログには、いつも勇気をもらっている。この記事も面白い。茂木健一郎 クオリア日記: 奇跡のリンゴ
日頃から、生物多様性が支持される根拠とでも言うか、何せ自分自身への説得力を求めて、何となくアンテナを張っていたのだけれど、こういう端的な例と言葉による説明があると、足下のフワフワが少し固まって立ち易くなってきた気がする。

2006年11月17日

自分から変えて行くことが

日本人は苦手ではないか。養老さんは、こう書いている(養老孟司のデジタル昆虫記 - nikkei BPnet)。この手の話は、他でもよくある。ここで”変える”対象を「社会」と養老さんは書いているけれど、「環境」と置き換えても同じ話ができるんじゃないだろうか。田舎の会合で、自らのムラの将来を語ろうとしても、少子高齢化だからとか、今の若い人には・・・とか、年寄りの言うことだから・・・とか。何かと”できない”理由をあれこれ見つけてボヤイてばかりいる人が多いような気がするのだけれども、僕だけだろうか? そんな話したってしょうがない。どうするか、できないんじゃなくて、どんなムラにしたくて、そのためには何をしようか。そういう議論をしたいもんだ。

2006年11月19日

連続したものを

 途中で終えることには、とっても勇気が要ります。逆に、コツコツと続けて連続したものにするのも、結構大変だったりします。生きていることが、そもそも連続的なので、生きていさえすれば、コツコツしているわけです。これは、実はスゴい事だったりします。お腹が空いて泣く赤ん坊を見ていると、そう思います。
 ところで、最近のメディアでの”いじめ”の取り上げ方には、”?”と感じることがあります。ニュースと言えば、僕の生活リズムでは、朝と夜のテレビを見たり、新聞の記事を読んだり、お昼に入った食堂でテレビやラジオから聞こえて来たりする程度です。テレビでは時間に、新聞では紙面(面積)に、それぞれ制約があって、それぞれの編集を経て僕たちに届けられます。この制約条件のおかげで、僕たちの受け止め方に、ある”型”が無意識に与えられてしまっている気がします。いつも、どんな”事件”も”問題”も、”犯人”探しばかりしている、そんな気がします。限られた時間と面積で、事実を伝えるという軸足をとりながら、明言を避ける振りをして、ある”空気”を醸している、そういう水面下の意思を感じます。否、その意思は無意識だったりするのかもしれません。そんな水戸黄門的なオチで何となく片付けられてしまうより、僕たちが知りたい事は、その構造だったりするわけで、限られた時間と面積を使ったメディアも、そこに切り込んでみせてほしいんですけれども・・・。僕たちも、”農”に対して、そのテーマの構造を探るために、もっと切り込んでいかないといけないのかもしれませんね。


2006年11月24日

土地を食べる

 農で生産される食物は、本来、土地がなければこの世にあり得ない。例えば、野菜や米。現在の流通形態からは、北海道のジャガイモやタマネギが九州で売られていたっておかしくない、と感じる。むしろ、産地には、気持ちは向いても、リアリティがない。
 ある土地で育てられた野菜を、その土地や近隣の土地で消費する事が良い事とされている。いわゆる、地産地消。医食同源とか、その他にも色々とあるけれど、健康と社会の在り様を含めたメッセージとして聞き及んでいる。でも、この言葉を通してイメージしても、やはり詰まる所、リアリティがない。良い事、と漠然と思えても、地に足着いてそれを受け止める事が出来るだろうか。僕には危うい。それよりも、ふと気づいたことがある。その土地の野菜や米を食べるということは、少なからず、その土地を食べる事になるのではないか。ということだ。その土地を、その土地で育てられた野菜や米を通じて食べる。その土地は、自分の血となり、肉となり、知恵となる。自分を形作るものを、その土地から得る。こう考えると、土地を食べるためのリアリティは大切な事ではないかと思い至る。だから地産地消につながる。土地が、風土が感じられる、生産者の顔が見える、そういう距離感において農産物を食することによって、土地を食べることに通じる。だから地産地消だ。どこまでの距離が許されるのか。そういう基準化は愚問だろう。小学校卒業まで育った土地で育った野菜を、時折段ボールに詰めて送ってもらって食べる。それでもいいんじゃないか。土地を食べる。土地との関係性の認識を回復させることが、まず求められている気がする。

2006年11月27日

限界集落

集落崩壊。社会的に成立しなくなる状況が、報道されるほど近づいて来たということか。65歳以上の高齢者が人口の50%以上を占める集落を「限界集落」と言うらしい。実際、この危機に現実的に直面している集落の棚田で、僕の家族は米づくりを続けさせてもらっている。実際に言葉の定義通りなのかは確かめたことはないし、はっきりとこの言葉を語られたことはないけれど、自分の生まれ暮らして来た村がなくなることへの危機感は何度も言葉で聞いた。兵庫県内でも豪雪地帯のその村は、地名辞典にも古くからの記載がある。それだけ歴史を積層した村だけれど、存亡の危機がジリジリと迫っていると思うと、見え方も少し違って来る。こうした村を生き続けさせたいと願う気持ちは、そこに暮らす人にとってどういう形となっているだろう。吉野ヶ里や三内丸山のように、遠い未来に遺跡として発見発掘されるのだろうか。その時間の隔たりは、浄化に近い優しさを持っているように思えるけれど、今そこに暮らしがある村から、人の気配が次第に消えて行くと思うと、言葉とは別の感覚がこみ上げて来る気がする。

「デザインの力」

11月25日、JUDI関西主催のフォーラム「デザインの力」へ出かけた。お目当ては、あの越後妻有アートトリエンナーレのディレクター、北川フラム氏の基調講演。氏の話は、力があった。時を垂直に、社会を水平につなぐためにはメディエイターの力が必要だという氏の言葉には、妻有の取組みを紹介されるにつけ、重みを増して受け止められた。また、広義のアートに深く関わり続け、同時にある部分では牽引し続けて来た氏が、「(※東京の)日本橋ですら、それほど遠くない過去に、野菜が運ばれ、下肥を積み出していた。そういう里山文化が、(日本の都市にもあった。それが)失われて良いのか?」と問うたのには、目から鱗だった。無意識に氏を”アート”の枠のみでとらえていたことに気づいて、実はその根の深さと張りに驚きもした。妻有は、単なる平坦なイベントではなかったらしい。それでも既に3回、6年を経ていることは、即ち開催地の200の集落にも、そこを舞台にアート作品を手がけるアーティスト達にも、確固とした手応えと、この日のお題の通り「力」を与えているのだと思う。次は3年後。今年で向けなかった事が、つくづく悔やまれた。
 午後は、3つある中の「デザインのレイヤー・時間軸」がテーマの分科会に参加した。照明デザイン、建築、都市計画、ランドスケープデザイン、マテリアルメーカー、グラフィックデザイン、色彩デザイン等の専門家がパネラーとなり、テーマに迫る。途中、「デザイナーと大衆」なんて話題になり、まだこんなことが話題に上るのかと呆れかけたけれど、「デザインは(デザイナーにとって)意思」という言葉に、共有された方向性らしきものは理解できた。レイヤーを、多様な専門家によるコラボレーションととらえたり、時間の積層と共に重ねられるデザイン行為とみたり、どの話題にも興味があったが、この日の時間の中では収れんしそうにはなかった。でも、デザインは意思だけれど、評価は誰がするのか。そして、その評価の積層は、デザインされたとする”その”モノに対して、どのように働くのか。暗黙の内に景観的なものを議論の題材にしていたけれど、それならば尚更、狭義のデザイナーだけがそれを成したわけじゃないと思うのだけれど。デザインは”する”ものではなくて、”なる”ものかもしれない。だから”デザインの力”は、束ねられてこそ発揮されるんじゃないだろうか。

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