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地域は誰のモノか

昔、エコアップ研究会の勉強会で、吉野川可動堰(徳島県)の問題を素材にした講義があった。その時の資料に「地域は誰のものか」と言う一文を記憶している。講義の内容は、はっきりとは覚えていないけれど、地域の取組み主体は、将来への責任と言う点で、地域住民以外にはない、というようなことだった気がする。
 今、上津橋プロジェクトに関わりつつあるボクたちは、同じ質問を投げかけられて良い。しかし、答えは違うのではないか。すばらしくも(地域の人たちにとっては)当たり前の環境を評価するのは、地域の人たちだけとは限らない。評価に曝されるということは、地続きである以上、仕方がないことだし、今程、メディアや交通手段によって一様化し都市化している時代に、放っとけと言われて放っておかれる地域が残っている程、日本は狭くはない。まして、良い環境であるなら尚更だ。それだけではない。すばらしくも当たり前の環境を、評価する視座を持たないが故に自ら評価できない地域であるなら、もし改悪されると知っても、部外者とされるボクたちは、ただ指をくわえて見過ごしているしかないというのだろうか。
 里づくりを自ら協議する場面で、様々な集落の人たちと議論したことがある。その経験を通じて、他者の目は必要だという確信を持っている。他者と言うのは、集落以外の人でも良いし、集落の人であっても、外から移って来た人、例えば、婿養子で来た人とか、お嫁入りしてきたお母さんでもいい。また、一度集落を離れて暮らし、また戻って来たというのでも構わない。とにかく、集落を外から見る目、客観視できる視点を持ち合わせているかということが大事だと思う。
 地域は誰のモノか、という問いに戻るなら、評価に他者の目が必要でも、そこから先、つまり評価して、次に何かを計画として練り上げて取組む段階で、断然地域の人たちの肩にググッと荷が乗って来るように思える。しかし、そうだろうか。それすらオープンにできるのではないか? 都市農村交流等と言う言葉があるけれども、これは農村による都市のおもてなしを指しているわけではない。
 地域に閉じた取組みにしない、と腹をくくって考えてみたら、どうなるだろう? 各地に少しずつ兆しがあるようだけれど。(つづく)

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2006年10月01日 02:53に投稿されたエントリーのページです。

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