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2006年10月 アーカイブ

2006年10月01日

地域は誰のモノか

昔、エコアップ研究会の勉強会で、吉野川可動堰(徳島県)の問題を素材にした講義があった。その時の資料に「地域は誰のものか」と言う一文を記憶している。講義の内容は、はっきりとは覚えていないけれど、地域の取組み主体は、将来への責任と言う点で、地域住民以外にはない、というようなことだった気がする。
 今、上津橋プロジェクトに関わりつつあるボクたちは、同じ質問を投げかけられて良い。しかし、答えは違うのではないか。すばらしくも(地域の人たちにとっては)当たり前の環境を評価するのは、地域の人たちだけとは限らない。評価に曝されるということは、地続きである以上、仕方がないことだし、今程、メディアや交通手段によって一様化し都市化している時代に、放っとけと言われて放っておかれる地域が残っている程、日本は狭くはない。まして、良い環境であるなら尚更だ。それだけではない。すばらしくも当たり前の環境を、評価する視座を持たないが故に自ら評価できない地域であるなら、もし改悪されると知っても、部外者とされるボクたちは、ただ指をくわえて見過ごしているしかないというのだろうか。
 里づくりを自ら協議する場面で、様々な集落の人たちと議論したことがある。その経験を通じて、他者の目は必要だという確信を持っている。他者と言うのは、集落以外の人でも良いし、集落の人であっても、外から移って来た人、例えば、婿養子で来た人とか、お嫁入りしてきたお母さんでもいい。また、一度集落を離れて暮らし、また戻って来たというのでも構わない。とにかく、集落を外から見る目、客観視できる視点を持ち合わせているかということが大事だと思う。
 地域は誰のモノか、という問いに戻るなら、評価に他者の目が必要でも、そこから先、つまり評価して、次に何かを計画として練り上げて取組む段階で、断然地域の人たちの肩にググッと荷が乗って来るように思える。しかし、そうだろうか。それすらオープンにできるのではないか? 都市農村交流等と言う言葉があるけれども、これは農村による都市のおもてなしを指しているわけではない。
 地域に閉じた取組みにしない、と腹をくくって考えてみたら、どうなるだろう? 各地に少しずつ兆しがあるようだけれど。(つづく)

2006年10月25日

これだけは

「これだけは無くなっちゃ困る! という食べ物は何?」という質問をされたら、何と答えるか? 今日、お昼頃、ふとそんなことが頭に浮かんだ。帰ってから、うちの奥さんにこの質問を投げてみた。帰って来た答えは・・・、
「梅干し、豚肉。特に、梅干しは他に代替品がないから。」
思わず聞き返してしまった。「うめぼし〜?」自分にとっては何だろう? 茄子かなあ。魚も捨て難い。うーん・・・。
 ところで、うちの子も離乳食が始まっている。野菜も食べ始めた。味付けはなく、素材の味だけだから、素っ気ないと思いきや、結構うまい。本人は、カボチャやサツマイモなんかがお気に入りだけれど、にんじんとかお粥も好きと言っている(と思う)。最近は、匙で与える前に「あ〜ん」と言うと、口をあんぐりと開けて待ち構える。
食べるということは、生きる事だと、つくづく思う。

フォーラム情報

11月25日(土)。第15回JUDIフォーラム関西「デザインの力」
あの妻有トリエンナーレのディレクター、北川フラムさんが基調講演をされる。アートの祭典として知らない人はいない妻有のイベントは、集落の人も巻き込んで、アーティストが環境そのものを使って表現をしている。大地の芸術祭と言われているが、作品をそこに置くというより、制作プロセスをもが作品という感じがする。その土地や場所と、作品がどう”ある”のか、自分の肌で感じてみたいとずっと思っている。今年が開催年だったのだけれど、悔しいかな出向けなかった。3年待つのが辛いなあ。

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